コンテンツにスキップする

愛おしき日常

2017年

時間感覚について

「今年もあっという間だった」
この時期よく耳にする言葉です。
時間の感じ方についてよく言われるのは「速い」と「長い」ではないでしょうか。
授業時間が長く感じたり、友人との時間があっという間だったり。
確かに私もそういう経験があります。

しかし、私の場合「近い」か「遠い」の感覚で判断することが多いのです。
最近日帰りで遠出をしました。
高速道路で2時間以上かかるような場所です。
帰ってきてから、出先での出来事が遠い昔のことに感じられたのです。たった4、5時間前のことなのに、です。
就活のとき、日帰りで東京と仙台を1日で訪問したこともありました。
そのときも、各地域での出来事が遠い昔のように感じられました。
飛行機で1時間半のサハリンから戻ってきたときもです。
そう考えると、時間感覚と距離感覚って関係あるんじゃないかなって思いました。

しかし、それだけではありませんでした。
例えば大きな仕事が終わったとき。例えば演奏会本番が終わったとき。
働いていた日々や練習していた日々が、たとえ昨日のことだとしても、遠い昔のことに感じるのです。

と言うことは、時間感覚は感情に大きく影響されているのかもしれませんね。




今日、印象に残ったもの

超早朝の街の景色
眩しい朝日
耳に優しい紙マスク
凍てつく川
幻想的なけあらし
変わったレバーのトイレ
テレビ番組を見て、「もっと大切なことがあるでしょ?」と話す声
壊れたままの線路

車掌さんの「次の電車にしてください」のかけ声
満員電車でマフラーを他の人のストラップに引っ掛けてしまった女の子
電車に降りてからそのことに気づいて、ほどけた後、お互いに「すみません」と謝り合う2人
似たファッションのカップル
背の高い、華のある女性
改札機のエラーでもたついてしまった人

日常ってこういうことの積み重ねでできているんだと思う。
でも、これはきっと世の中のほんの一部。
ちょっと外に出ればもっと色々なものが見えるんだろうな。
知って後悔することかもしれない、見られてラッキーなことかもしれない。
光も闇も希望も絶望も自分のすぐ側に迫っている、そんな気さえする。

…まとまりがなくなってしまったのでこの辺にします(苦笑)




生きるということ、いのちをいただくこと

ひょんなことから魚を捌くことになった。
恥ずかしながら、実は生まれて初めてのことだ。

父の釣ってきた川魚4尾。
数時間前まで川を泳いでいた魚。
ぬるぬるしてつかみにくい。

母は鶏肉を炒めながら捌き方を教えてくれた。
流水で洗い、頭を切り、内臓を出し、腹を切り、血の袋(名前はわからない)を洗い流す。
頭を切るときのぶつっという生々しい音と骨の感触。魚の血に染まる手。
最後に水気を取り、塩を振りかけて焼く。
食卓に出てきた魚は塩味が効いていてごはんが進む。うん、おいしい。

こうして魚は今私の身体の一部やエネルギーの一部になっている。
料理をすること、それはいのちをいただくための儀式なのだと気付いた週末だった。




満たされた気持ちと満たされない気持ちのバランス

勉強にしても音楽にしてもスポーツにしても他の技術にしても、身につけるため、レベルアップするために特訓や練習をする。
私の場合、どこか満たされない気持ちや悔しさが原動力となることが多い。
満たされたい、満足できる結果を得たいと思い努力する。
結果が出たときはそれはもう嬉しくてたまらない。
でも、満足してしまったらそれ以上の発展は無いと思い、満たされることに不安も感じる。
一方で「極めることに終わりが無い。だったらどんなにやっても意味ないじゃん。」と思いやる気をなくすこともある。

ここが難しいところだと思う。
満足と満たされない気持ちのバランスが。

一生を終えるときに最高の達成感があれば、それがベストなのかも。